/鈴木大拙「禅とは何か」角川ソフィア文庫 1945

昭和2-3年にかけて大阪妙中禅寺で行なわれた鈴木大拙の講演をまとめた本。禅の入門の古典。
んーまだ知る時期に至っていないのか何を言っているかわからないところが多い…
今ひとつ読みきれた感じがしない本


以下 俺用メモ、理解及ばず単なる羅列に…
 *1宗教経験としての禅
 *1-1宗教経験とは何か

"第一に社会的事象として宗教を見るならば、それはひとつの制度とも見られるのである。"10p
"次に宗教を儀式の方面から観察することも可能である。だいたいにおいて儀式のない宗教は宗教ではないといわれているごとく経文の読み方やその他服装とか大小の儀式作法やお祭りなど、あらゆる儀式がそれぞれの宗教に存在している。思うに儀式のないしゅうきょうはちょうど身体のない心、または幽霊のようなものである。 〜略〜 寺院の建築などもひとつの儀式と見られるのである。キリスト教、回教、その他の宗教と仏教の寺院建築とを比較すると、その内面的差異が直ちに建築物という外形にも顕われている。"10p
"また宗教はこれを知的方面から観察することも可能である。いったい、われわれ人間の場合においては知性、理知というものがわれわれ人間性の根本まで食い入っているのである。 〜略〜 知性それのみで宗教であり得るかといえば、ちょうど社会的活動が宗教でなく、儀式が宗教の全幅ではないことと同様に、これまた許さるべき事柄ではないのである。けれども、知性と宗教の不可分的関係に立つことは否定し得ない事実である。宗教はどうしても哲学の力を借りなければならない関係のもとにあるからである"11p
"また宗教を道徳上から眺めることも可能である。 〜略〜 本来宗教は道徳ではないのである。 〜略〜 善人が必ずしも立派な宗教家ではなく、立派な宗教家だからといって必ずしもその時代にその人が善人として通るものとも限らない。"11p
"ここに今ひとつの大切な要素がある。 〜略〜 実に宗教をして可能ならしむるものは、この個人的宗教体験"12p
"疑いの裏には信がある 〜略〜 不満のあるところ、すでに満足がある、否、満足の可能性、満足の予期とも言い得られるものがある 〜略〜 「俺たちは一生苦しみ通すのか」 その苦しみの中に楽しみが芽を出している"

宗教の社会的活動×儀式×道徳×理知の絡み合いの中に宗教体験がある。信心があるから疑いが起こり逆もまたそうであるということ?
 *1-2何を仏教生活というか
@"いかなる宗教でも人格が中心にならないものは無い"26
@"仏が菩提樹下において体験した正覚というものが、仏教を通じて主なる潮流をなしているのである。"42
 *1-3仏教の基本的諸概念
@"小乗教でその理想としておった羅漢というものは、これは自分に対するだけの修行であって、それでは人に及ぼす力がない。仏教も人に及ぼす力のないというものであったら、それは独りよがりのものであって、本当に人間として完全な発達を見られたものという訳にはゆかない"65
 *1-4証三菩提を目的とする禅
@"そのものを、そのものとみることのできる人は、すでにそのものから超越した人である。 〜略〜 苦しみを苦しみと観じ、寒暑を寒暑と観じた人は、それを超越することができた人なのである。 〜略〜 そういうことを批評的に見ることができると同時に、またそれに捉われて、それ以外に出ることができなくなる。これが人間の弱点である。"91
@"宗教は常に独自の世界を開拓して、そこに創造の世界、自分だけの自分独特の世界を創り出して行くことを教えている。 〜略〜 物の中に居て物に捉われぬ習慣をつけておかねばならぬ"101
 *1-5心理学から見た禅
@"宗教に力を与えるのは、どうしても神秘的経験でなければならない。神秘的経験というものはいつも新しいものを作り出す動機である。非常に宗教が主知主義に偏するというと、一つの型に入ってしまう怖れがある。"111
@"宗通とは神秘的経験であり、説通とは論理的説明である"113
@"禅宗とは、どんなものかというと、これは哲学では断じてない、その基礎は心理学の上に置かれているものと言ってよい。この心理的体験というところに、禅の生命がある。"114


 *2仏教における禅の位置
 *2-1宗教経験の諸要素
@"感情、意識、心の動きに対しては、それ相応の表現というものがなくてはならぬのである。表現があって、初めてその心の動き方というものが、完全に動いたものと考えてよろしい。だから美術的の方面から言っても、絵を描いても、文章を書いても、うまく書けない、あるいは音楽をやっても、いい音が出ないというならば、その人の感じが、まだ不完全であるということも、ある程度までは言いうるのである。宗教というものも、そういう塩梅で、お寺の今日衰微しているのも、その精神というものが、どこかになくなっているからであろう。"150
@"表現というものにあまり重きを置き過ぎるというと、その表現の儀式というものが、本当の儀式だけになって、そこに何の意味もないということになるかも知れない。これが伝統というものに伴う弊害である。"151
 *2-2宗教経験の諸型
@自意識過剰、若しくは悪い分別の弊害

十七、八歳ころからいろいろの宗教上の煩悶というものが出て来て、ついに、今までは愉快な顔をしておったものが、なんとなく臆病になってしまう。
164p
多くの人の癖を見て、自分の癖を直すということになればいいが、一つそこに妙な方向に進むというと、どう見せたならば人がどういうふうに見てくれるかという虚偽の心が出て来る。
164p
そういうふうに知性というものが進むとどうなるか。それは自分で自分を殺すということになる。これまでは、自分を助けるために出てきたところの知の働きというものが、今度は自分を殺してしまうということになる。 〜略〜 いつまでもおずおずして、闊達自在なる働きができないということで、その人が死んでしまうということである。〜略〜孔子は日に三度反省するといった弟子に対して、それは二度で沢山であると言った。あまり考えすぎると言うと、なお及ばざるがごとしということになってしまう。 〜略〜 曇りのない心が、反省で先が見えぬようになるというようなことがある。 〜略〜 断じて行なえば鬼神も之を避くということがある。
165-6p

要は、頭でっかちになりすぎて惑うなということであろうが…
無職で時間だけ余っているこの時期に、なにか一つバカのふりして腰をすえて貫徹することを思い浮かべる時期なのかもしれない。疾風怒濤の時をやり過ごし、やっと自意識の制御ができてきた頃だけに。

@"迷信の根拠は科学の世界の埒の外に出ている。"170p
@"自分の力の及ばない、考えの足りない、わからないということを、どうかしてわかりたい、どうか自分の都合のいいようになりたいという願いから迷信が出ているのである。"171p
似非科学とかもまた格好の迷信だよな。
@"哲学に対して"宗教というものは 〜略〜 退いて一歩をみるという、退一歩ということがある。いい加減のところで、戻ろうじゃないかということは言い得るけども、それは言い得るだけであって、事実は行くところまで行って、初めて戻ることができるのである。"174p

 *2-3宗教としての仏教
@"真宗の方では、仏教の情の方面をばしきりに力説する。禅宗は知の方面を力説するのであるから、言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒というようなことになるが、真宗の方では、情の方面から弥陀の本願ということが、罪あるわれらを救うということを感ずるところに、真宗の情意的のところがある。"190p

 *2-4楞伽経大意 <りょうがきょうたいい>
@"経典で禅宗と最も関係の深いのは、楞伽経である。普通には、禅宗では心経を誦む"207p (心経=般若心経)
他に金剛経(川老注)、円覚経、楞厳経<りょうごん>
他は経典の編纂史とか
 *2-5神秘主義としての禅